朗読劇『文豪LETTERS』前川優希・小波津亜廉 版 を観て。
言葉には特別な力がある。
言霊ともいわれるもので、文豪と呼ぶ彼らの言葉には、その言霊の力が強く宿っている。
今の時代に、月を見てうっかり「月が綺麗ですね」なんて言ってしまった時には、一体どんな誤解を招いてしまうものか。
(尤も、これは本当に漱石が言った言葉なのかあやしいところではあるが)
蜘蛛の糸という言葉ひとつにしても、柿という単語ひとつにしても、それは、そのもの以上の意味を持って多くの人に知られている。
朗読劇『文豪LETTERS』で強く感じたのは、声に出された時の言葉の持つ力だった。
なおまた口で話す方は、その場で感動させることを主眼としますが、文章の方はなるたけその感銘が長く記憶されるように書きます。
とは、今こうして書いていてふと思い出した、谷崎潤一郎の「文章読本」の一文である。
手紙というのは、なるたけその感銘が相手に長く残るように書きながらも、どこか口で話すように綴られるものだ。
書くという意識と話すという意識が自然と混ざりあった、隙や揺れの見える言葉。
お芝居ではありつつ、こんなお手紙が届きましたよというように親しげに朗読する前川さんと小波津さんの姿は、文豪という偉大さより、ただありのままの誰かの小っ恥ずかしささえあるような裸の心であった。
小波津さんの威厳ある漱石先生、心配性な金之助。
前川さんの若々しさの残る龍之介くん、虚ろに歩みを止めた芥川。
お二人だからこその空気感に、私の知っているような知らないような文豪たちの人間味が生きていて、そして、死んでいった。
読んだ覚えのある言葉とちらりと聞き覚えのあるエピソードの中に、お二人の声を通してまた新たな人生の姿を見た気がした。
芥川龍之介の『遺書』など、前に読んだ時にはここまで息の詰まった印象はなかったというのに、「ふみちゃん」と愛おしそうに名前を呼ぶ優しい目を見ていたから、前川さんの読む『遺書』に滲む虚無が酷く苦しかった。
私自身が耳鳴りの酷い質で、日々あの音に悩まされているからというのもあるのだろうか。
あのモスキート音が更に息を詰まらせ、知らずのうちに虚無の声に呑み込まれるような心地だった。
萩原朔太郎の『芥川竜之介の死』『芥川竜之介の追憶』に、菊池寛の『芥川の事ども』、そして夏目漱石の『吾輩は猫である』中篇自序。
これらも読んだことのあるものであったのに、芯のある声で時々宙を見上げるような仕草と共に語られると、文章として冷静に書くことに努めてはいる奥に残る拭えない後悔と悲しみがじんじんと心に染みてくる。
谷崎潤一郎と萩原朔太郎の熱烈なラブレターは……うん……すごかった。
語彙が達者な文豪たちの手紙を臨場感たっぷりに大声で読み上げるものだから、文面以上に熱烈に感じ、勢いがありすぎて今にも飛びそうな熱量に、もう仕方ないなぁとすら思えてくる。
愛があるのはよろしい。
うん。
よろしいんだがね?
……なんて。
あのいっそ愉快なくらいの熱量がありのまま彼らの中にあると思うと、人を好きになることに悪いも何もないような気がしてくるのだから、やはり、言葉の力とは侮れない。
そして、書き手だけではなく、その手紙を受け取る子規や鏡子、文の姿も。
相手を思って書くという、手紙の愛おしいところがちらほらと見てとれるのが、とても嬉しかった。
個人的には、ゆったり気ままな鏡子殿の小洒落た仕草と、Kissにぴくりと反応する可愛らしい文ちゃんがとてもとても愛らしく、これはきっと、芥川家の龍之介くんと夏目家の金之助くんが手紙を書きながら思い出していた妻への恋しさからくる可愛らしさなのかもしれない、と思ったりした。
「どうしましょう!?」
「あらそうだったかしら?」
ふふ、何度思い出してもとても愛らしくて、ついにこにこと微笑んでしまう。
ふと、まだスマホもなかった幼いころ、海外に住む私は、海の向こうの日本へと帰ってしまった友だちに手紙を出すことが大好きだったことを思い出した。
友だちに話したいことや友だちにどんな楽しいことがあったのか、あれやこれやと友だちを想う時間はとても楽しく、書き終えた時にはもっともっと友だちのことを好きになるのだ。
そして、会いたくなる。
「しきりにお前が恋しい」
「僕は文ちゃんが好きです」
○○ちゃんが大好き。と素直に書いていたあの頃の自分が、戻ってきたような感じがした。
これから私は、手紙を書こうと思う。
去年の夏に、簡素でお洒落な色合いと外袋に書かれていた活版印刷という文字に惹かれて買ったが、気に入ってしまったがばかりにまだ誰にも出していない便箋がある。
そのとっておきに書くのは、ファンレターと呼ばれる恋文だ。
初めて書くものだから、読むのに一苦労かけてしまう出来になるかもしれないが、まあ、それでもいいのかもしれない。
たまには素直に書いてみることにする。
令和六年九月二十二日 アル